12月に入ってもあたたかい日が続き、海眼寺の皇帝ダリアはまだ咲いています。

皇帝ダリアは初霜で花が枯れてしまいます。12月まで残っているのはまれです。
玄関前のオキザリスも、日を浴びて花を開かせています。

オキザリスは日が差すと花を開き、陰ると律儀に花を閉じます。

さて12月8日は成道会(じょうどうえ)です。
 
 
成道(じょうどう)とは、お釈迦さまが悟りを開かれたことをいい表したことばで、お釈迦さまの成道に感謝をささげる法要を成道会といいます。
お釈迦さまは29歳で出家し、6年間の苦行の結果、尼連禅河(にれんぜんが)のほとり、菩提樹下(ぼだいじゅげ)で禅定(ぜんじょう)に入られ、魔を降伏 (ごうぶく)し悟りを得られました。時は12月8日、明の明星が輝くころで、35歳の時でした。成道が得られなければ、多くの人々が救われることもなかっ たし、もちろん仏の教えも説かれなかったわけです。12月8日は仏の教えが生まれた日であるので、この成道をお祝いし、お釈迦さまへの深い感謝をささげる のです。


真言宗智山派 智積院ホームページ  http://www.chisan.or.jp/event/events_detail/id=75


というわけで、成道会は仏教にとって大切な行事です。
海眼寺は臨済宗中興の祖、白隠禅師が描いたとされる「出山釈迦」の画を所蔵しています。毎年成道会の時期に、虫干しを兼ねて書院の床の間に掛けます。

修行にはげみ、ついにお悟りを開かれたお釈迦さまの姿を独特のタッチで描いています。
ちなみに白隠禅師は来年(2016年)に250回忌の遠諱の年にあたり、臨済宗を挙げてさまざまな行事が行われています。京都と東京の国立博物館で展覧会もあるようですので、ぜひ足をお運びください。

 

海眼寺にも御詠歌(ごえいか)の会があります。現在十二名のご婦人方が月二回の稽古に励んでおられます。
先日も住職研修会が本山・南禅寺で行われ、住職は参加しておりました。

二泊三日の御詠歌三昧でした。

御詠歌はお経ではありません。鐘や鈴を用いて仏教的な歌をうたう、いわば宗教音楽です。しかし実は御詠歌というと大きく分けて二つの種類があります。

ひとつは西国三十三ヶ所御詠歌に代表されるような、俗謡あるいは巡礼歌として、千年の歴史をもつものとしての御詠歌です。近畿地方ではいまでもお盆や、故人が亡くなって四十九日のあいだ西国三十三ヶ所御詠歌を唱える習慣が残っています。
一般的に御詠歌というと、こちらを思い浮かべる方が多いでしょう。



もうひとつは、仏教各宗派が独自に制定した教団の御詠歌です。海眼寺は臨済宗南禅寺派ですので、南禅寺派の御詠歌「独秀流」をお唱えしています。

これらの教団詠歌は1926年に高野山真言宗の金剛流が、教団詠歌として初めて創始されて以降、東寺流(真言宗東寺派)、密厳流(真言宗智山派)、豊山流(真言宗豊山派)、梅花流(曹洞宗)、吉水流(浄土宗)と矢継ぎ早に創始されました。

わが臨済宗は花園流(妙心寺派) 、独秀流(南禅寺派) 、慧日流(東福寺派) 、鎌倉流(円覚寺派・建長寺派) ……と、挙げれば数限りなくあります。

金剛流「三宝和讃」


豊山流「総本山長谷寺御和讃」


梅花流「報恩供養御詠歌」


鎌倉流「天地のめぐみ御和讃」


俗謡としての御詠歌がいわば口承、口伝えが主で体系化されていないのに対し、これらの教団詠歌は、独自の楽譜による教本や教則、理論といったものが体系的に制定されて、仏教の教義や各宗派を布教伝道するためという目的がはっきりしています。いわば宗教音楽としての要素が強く感じられます。

というわけで、海眼寺でも南禅寺の「独秀流」を頑張っております。

箏と尺八の伴奏があるバージョンです。



 

「家の仏壇ではどんなお経を唱えればいいの?」
「私は家ではこのお経を唱えているのですが、間違っていませんか?」
というご相談をよく承ります。

たしかに「こういうときはこのお経」というのは、各宗派である程度決まっています。
しかしそれほど気にせずともよいでしょう。

まずは般若心経をゆっくりお唱えしてはどうでしょうか。

さて、こちらは海眼寺の法要で使っているお経の本。
海眼寺ではお参り頂いた皆さん全員と、このお経の本で一緒に読経します。檀家さんにも一冊ずつお配りしていますが、法事で唱えるのは般若心経といくつかの和讃(日本語で書かれたお経)、最後に(延命)十句観音経。お経を唱えるという体験を重視しているので、観音経や大悲呪などの比較的難しい漢文のお経はあまり唱えません。

もし般若心経だけではもの足りない、という方は般若心経のあとに普回向(ふえこう)をお唱えしてはどうでしょうか。
普回向は簡単です。

「願わくはこの功徳をもって、あまねく一切におよぼし、われらと衆生と、みなともに仏道を成ぜんことを」

これだけ。
ちなみに普回向とは、いま唱えたお経のありがたい力を、自分だけではなく世界中のすべてのものに振り向ける(回らし向ける)、ということです。お経は自分や近しい故人のためだけではなく、この世のすべてに回らし向けてこそ意味があります。


 

住職がかつて修行した静岡のお寺で大きな法要が営まれ、住職もお手伝いしてきました。

こちらの犬は、そのお寺で修行僧たちに可愛がられているお犬さま。
名前を羅睺羅【ラゴラ】といいます。ラゴラとはお釈迦さまの教えを直接受け継いだ十人の弟子(十大弟子)にして十六羅漢、ラゴラ尊者のこと。しかしラゴラ尊者がなぜ有名なのかと申しますと、お釈迦さまの実子であるからです。

お釈迦さまはインドのある国の王子として何不自由なく暮らしラゴラという息子も得ましたが、29歳のときに出家します。そしてお悟りをひらかれたあと、成長したラゴラを半ば強制的に出家させ修行の道に進ませます(ずいぶんと乱暴な話ですがここらへんのくだりには諸説あります)。最初ラゴラは実子であることに慢心し、お釈迦さまにもたしなめられたそうですが、後には修行を重ね立派にお釈迦さまの教えを受け継ぐのです。

どんな世界でも偉大な親やご先祖様を持つと、子どもは何かしらの思いや紆余曲折があるもの。それでなくとも誰しも親とのあいだにはいろいろあって当然ですが、その葛藤のなかで自分の世界を見出したラゴラ尊者には、他の修行者にはない奥深さを感じます。

このラゴラも、幼犬のときは誰かれかまわず吠え掛かる犬だったそうですが、お寺での修行を重ね?ずいぶんと落ち着いた犬になりました。いちおう番犬の役割もあるそうですが、そちらでの活躍はあまり期待できなさそうです。
 

 ご質問があったので宗派と本山についてご説明します。

◯宗派と本山
日本のほとんどのお寺は、いずれかの宗派に属しています。海眼寺の場合は臨済宗です。そして宗派にはそれぞれ「本山(ほんざん)」という総本部みたいな大きなお寺があります。海眼寺の場合は京都の南禅寺です。そして南禅寺に属するお寺が集まって南禅寺派を形成しています。つまり海眼寺は、臨済宗南禅寺派に属するお寺ということになります。

こんな感じで、臨済宗には14の本山があるのですが、このうち京都には

鎌倉には

地方には

があります。そしてそれぞれの派に属する末寺があるというわけです。ちなみに全国にある臨済宗寺院約6,000ヶ寺のうち、半分以上が妙心寺派のお寺ですが、いっぽう佛通寺派や國泰寺派は50ヶ寺未満の小さい宗派です。

なお臨済宗や曹洞宗などの禅宗の本山には、総本山はありません。すべて大本山と呼ばれ、どの本山がいちばんエラいということはありません。


◯臨済宗は行き来が盛ん
このように臨済宗は14の本山/派に分かれていますが、各派のあいだでお坊さんの行き来は盛んで、修行も基本的にはどの本山のお寺で修行してもいいことになっています。お経や教義などもほぼいっしょです。

檀家さんについても、たとえば海眼寺から妙心寺派のお寺に移られた方もいますし、海眼寺の和尚も他派のお葬式に呼ばれてお参りすることがあります。

ちなみに海眼寺の副住職は、相国寺派のお寺に生まれ、妙心寺派のお寺で修行し、南禅寺派の海眼寺にやってきました。さすがにこれだけ渡り歩くのは珍しいようですが……



臨済宗のお葬式では、お坊さんが



「カーーーーーッ!!」



とか


「ローーーーーー!!」



と叫ぶ(どなる?)シーンがあります。
それまでウトウトしていた参列者が驚いて飛び起きることもしばしば。何事かと驚いた経験がある方もいるでしょう。

これは別に眠けざましではありません。葬儀の参列者が寝ているからといってお坊さんが怒っているのでもありません(笑)
「カーーーッ!!」というのは「喝(かつ)」と言っているのです。

禅宗、とくに臨済宗ではこの「喝」が禅の極意・真髄を表す言葉としてよく用いられます。なんでかというと臨済宗の祖である中国の臨済禅師というお坊さんが、よく「カーーーッ!!」と叫んで弟子たちに禅の境地を示したからです。

それがなんで禅の境地なのか? 「喝」という字には「大声で叫ぶ」という意味しかないので、それが別のなにかを指し示しているわけではありません。だから「ワーーーッ」でも「ドーーーン」でもほんとは何でもいいんですけど、いずれにせよ日常の偏屈な考えや言葉じりにとらわれることのない本当に自由な世界は、ちょっとした言葉では言い尽くせないものです。それでも何とかそれを弟子たちに伝えたいと考えた臨済禅師は大声で「カーーーッ!!!」と叫んでお釈迦様の教えの荘厳さ、鋭さ、そして厳しさを端的にそのまま表したわけです。。。。ちょっと込み入ってきました。


臨済禅師の喝についてはこちらを参照してください。
また臨済禅師やその語録である『臨済録』についてはたくさん本が出ていますので参考にしてみてください。『臨済録』は岩波文庫にも入っています。



そういえば、日曜日の朝にテレビで「喝だっ!」って怒り散らしてる元名選手がいらっしゃいますが、一般的に「喝」は気合いを入れたり根性をたたき直す意味で使われることが多いように思います。坐禅のときに棒でバシバシ叩くのも闘魂注入か何かと思われているフシがあるのですが、禅的にはそのような気合いや根性という意味合いはありません(ちなみに「喝を入れる」は誤り。正しくは「活を入れる」です)。あくまでお釈迦様が体得した仏教の真の境地を得るための手段や表現でしかないんです。

そもそも「喝」をそんなに連発しちゃうとちょっとインフレぎみというか、ありがたみが薄れる感じがします。バシッとポイントを突いてあとは知らんぷり。それが「喝」の正しい使い方だと思うんですけど。





日本の仏教では従来の仏教に加えて、祖先崇拝が大きな柱となっています。お釈迦さまの時代の最初の仏教には、ご先祖様をお祀りするという教えはありませんでした。各国に仏教が広まるなかで、

・中国的な祖先崇拝
・仏教が伝わる以前からあった日本古来の信仰」
・インドから来た仏教の教え

がミックスされて、現在の日本の仏教の姿があります。しかも仏教伝来以来千五百年以上の時間が流れ、さまざまな宗派が生まれ、津々浦々でいろんなバージョンが生まれ、消えて、変化を続けてきました。さらには人によって考え方や経験も違います。

これは私見ですが、「これが本当の仏教の姿」「これが正しいお葬式のやり方」といったものはないといっていいと思います。「本当の」ことを追い求めるあまり、もっと大切なことがおざなりになっていませんか?

お釈迦さまも「諸行無常(ひとつとしてそこに留まるものはない)」とおっしゃっています。あまり細かいことは気にせず、それぞれで心のこもったお祀りをしていただければ、それが一番の供養になると思います。


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